05


 アルノ・イリスは、ジュテアの町の有名人だ。
 ――スタンレーはそのことを、身をもって知ることになった。
「アルノ、今日の仕事どうしたんだい?」
「あら。アルノ、マリアンたちは元気にしてる?」
「やや、そちらの御仁はいったいどちらさんだ」
「今日のチーズはうまいよ、アルノ」
「アルノねえちゃんがでーとしてる!」
「祭も近いのに、なあにほっつき歩いとる」
 以下、略。
 道でだれかに会った、そのたびに話しかけられているのではないだろうか。そう彼が思うくらい彼女は知人に呼び止められる。しかもそれらにいちいち元気よく応えるものだから、場合によってはその場できゃっきゃと盛り上がる。おかげさまでスタンレーは案内をうけている間、実に贅沢な時間の使い方をさせてもらっていた。……いつになったら、ジュテアの町から発てるのだろうか。
 だれも答えてくれないことは明白だ。むなしくなるばかりなので、その問い口に出すことはしない。
 彼がひとつ欠伸をかみころしたところで、ようやく彼女が話していた男に手を振って別れの挨拶を交わしていた。さっきまでたしか、貯蓄している麦をどのくらい挽いておこうか、だとかそんなことを話していたように思う。アルノのどでかい声のおかげで、彼女らが町の人々と交わす話はスタンレーにもおおよそ把握できていた。会話に入っていなくても、だ。
「待たせてごめん!」
「いや。もう話はいいのか?」
「うん、平気。じゃ、次いこっか!」
 顔いっぱいの笑顔でこぶしを突き上げる姿は、よく晴れた午後の空によく似合う。自分とはおよそ正反対なその様子に、スタンレーは疲労を覚えた。理由などない。
「まだ行くのかよ」
「つ、ぎ、で、最後!」
 くるくると踊りだしそうな勢いで前を進む少女は、スタンレーがついてくることを疑っていないのだろう。
 後ろを歩くスタンレーを、時折町の人間が眺めていく。こちらまで有名人になった気分だと、そうひとりごちりたくなるのをこらえながらスタンレーは、親指のはらでしわを伸ばすように眉間をおさえた。
 この町の視線はむずがゆい。旅行者に向けられる視線なんてものは大体、よそから来た人間をそっと押し返すような色をしている。そういうものだ。なのにどうだ、この町の人々はみな、どこか困ったように笑っている。なかにはお疲れ様とでも言うように肩を叩いていった男もいた。
「土地柄、か?」
「なにが?」
 それともこのおてんば娘のせいか。たまらずこぼしたのはため息だ。厄介なのに捕まった。そう思わずにはいられなかったが、逃げる気力すらおきない。
「……天気がいいな」
「うん、雨季までもうちょっと間があるからね。この時期は洗濯物がよく乾くんだあ」
 気が抜けるくらいの青空だ。



 最後につれてこられたのは時計台だった。
「ここの管理をしてるひと、時計じいさんって呼ばれてるんだけどね。ワイン瓶三本で、上の階にあがらせてくれるの」
「……空の瓶、三本で?」
「うん」
 先刻酒場に寄ったのはそういうことか。空瓶を持たされたスタンレーは、時計台の階段をのぼりながら疲れた笑みを浮かべた。階段の途中にある古ぼけた扉の前で、アルノが一度、二度ノックをする。「時計じいさん、元気にしてる?」
「おお、アルノか。生憎まだばあさんの迎えもないな。どうした、鐘をつくにはまだ早いぞ」
「友達に上を見せたくて。いつもの置いとくね」
「鳩たちを怯えさせるなよ」
「はーい」
 スタンレーから瓶を受け取ったアルノは、階段のわきにそれを並べてからさらに上へとのぼりはじめた。
「顔見せなくていいのか?」
「ドアの前にコルク栓が下がってるときしか入っちゃいけないの」
 雑感を飲み込んで少女のあとに続く。数え切れないほどの歯車が組み込まれた機械を眺めながら上へ上へとのぼっていった。聞けば地下水路の水流を動力にしているという。あちらこちらと指差しながら先を進むアルノの声が反響していた。
「大掛かりな仕掛けだな」
「うん。出来上がったときはすごい大騒ぎだったみたい。そのころ一番の技師を呼んでね、何年もかけて作ったんだって」
 階段をのぼりきったところでこれまた古いドアがひとつ。その前に立つと、アルノはにんまりと緑色の目を細めた。
「今日いちばんのおすすめ!」
 彼女が扉を押し開けた途端、薄暗い塔のなかに光が差し込む。すっかり暗がりに慣れきった目が軋むような気がして、思わずスタンレーは小さく声を上げた。
 恐る恐るまぶたを上げると、石造りの柱や手すり。そしてその向こうに、一面の青が広がっていた。
「ここは坂の上にあるからね。鐘つき場までのぼったら、町の通りがよく見えるんだ。あそこの赤屋根はさっきの酒場」
 手すりから乗り出す少女のとなりに立てば、なるほど。そうのぼった気はしていなかったが、思った以上に目線が高い。腕を飾る金や銀に光が反射して、まぶしい。
「ここに入らせてもらえるの、私くらいだからね。スタンは運がいいよ!」
 柱の上には鳩が三羽ぽってりとした腹部をならべてとまっている。突然の来訪者にも驚くことなく、呑気に首をふくらませたり傾げたりしてみせた。
 本当に運がいいかといえば、それは甚だあやしいが。
「……いいところだな」
「でしょ? でしょ? お気に入りなんだ」
 水路や通りはよく整備されているし、農耕もさかんで、なにより平和だ。人々の暮らしぶりから見て取れる。よそものの目から見ても、ジュテアはとてもいい町だ。
 ……だからこそ、ああいう奴らはすぐ目立つんだ――。
「アルノ。ここから霊堂までどのくらいかかる?」
 時計台を出るころには日が西に傾き始めていた。
「ん? えっと、大体歩いて20分くらいかなあ」
「走ったら10分くらいか?」
「多分」
「しっかり走れよ」
「え?」
 突然の疾走にアルノは大声を上げた。訳が分からないといった顔だが、立ち止まる暇はない。彼女の手を掴んでスタンレーは大通りの真ん中をぐんぐん走った。
「ま、待って! いきなりなに?」
「さっきから、ずっとつけられてんだよ!」
「だれにっ?」
「知るか!」
 ただ後ろを追われるだけなら、そのまま無視するつもりだったのだ。少なくともスタンレーにはことを構える意思などなかった。あちらさんが飛び道具などちらつかせていなければ。
 人通りもまばらになってきているとはいえ、まだ日も落ちきらない町中でクロスボウ羽目になるとは、さすがの彼も思っていなかった。革命や内戦の地ならいざ知らず、ここは春の祝祭を前にして浮き足立っているような、平穏そのものの地方都市だ。
「シェルナの奴ってのも、無粋な連中だな…っ」
「わ、わ!」
 できるかぎり大きな道を選んで走る。時折ひとにぶつかりそうになりながらも、ひたすらスタンレーは円屋根を目指した。下手に撃たれてだれかに当てられても困る。
 ついていくことに精一杯で、アルノの口数も次第に減っていった。かわりにすっかり荒くなった息遣いの上、顔も知らない追走者の足音がかすかに重なる。アルノの耳もそれをとらえたのか、痛いほどに彼の手を握り返す。ちゃり、ちゃりと腕飾りが音を立てていた。
「もう少しだ。すっ転ぶなよ」
「うん」
 もつれそうになる両足を引きずるようにして彼女はスタンレーについていった。それでも足音との差は縮まっていく。もうとっくに相手の射程距離のなかにすっぽりおさまってしまっていた。
 それでも撃ってこないということは、傷をつけたくないという話なのだろう。無論スタンレーのことではない。彼が手を引いているこの少女だ。
 異教徒たちがお近づきになりたいのは、どうやら彼女であるらしい。つまり彼女といるせいでスタンレーは追われていて、彼女のおかげで引鉄はひかれないままでいる。本当、運がいいんだか悪いんだか!
 霊堂の門まであと少しというところで、懸命に息を吸ったアルノが叫んだ。「フリッツ! フリッツ!」門の窓からひょろりとした青年が顔を出した。「追われてるの! 入ったら、閉じて!」
 いろいろと端折った嘆願だったが、青年は慌てた顔で頷いて奥に引っ込んでいった。
「……上出来」
 霊堂へ駆け込みながらスタンレーは銃を抜く。
「う、撃つの?」
「怪我はさせねえよ」
 ちょっと驚かすだけだ。そう言ってホルダーに仕込んである弾をつめて、弾倉をもとに戻す。ガチャリとおさまるその音は不快だ。すべりこむようにふたり教会の敷地に入って、ぱっと後ろを向いたスタンレーが、撃鉄を起こした。
 光が灯った。
 そう表すほかがなかった。銃を構えた彼の腕を、靄のような淡い光が抱き込んだ。骨の内側から熱が広がる錯覚に、なに、と思う間もなく彼はトリガーを引いていた。引いてしまった。
 音はなかった。(おかしなことに。)
 銃口で雷火がはじけて、気がついたら地面が焦げていた。ひび割れた黒い土から、うっすらとのぼっている煙を見て、だれもが黙然としている。断ち切るように霊堂の門がおろされた途端、どっと汗が吹き出した。反動で後ろに倒れこんでいたことにすら、気がついていなかった。
「いまの、なんだ」
 訊ねても、答えるものはいない。
 なにも分からないスタンレーのうしろで、少女はしずかに瞠目していた。


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(09/04/29 UP)

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